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<<<白く揺らめく霧の中をシロはひとり立っていた。
裸足の足が隠れるほどの深い深い霧だった。
その霧の中から、今にも消えそうな白い手がひとつの手紙を差し出している。
視界の全てが白に覆われた世界でその小さな手のひらだけがシロには大切なものだった。
けれども、それを受け取った瞬間、その手は触れる事も無く霧の中にとけてしまう。
シロは悲しかった。
泣きたいほどに悲しかった。
けれど自分の瞳は涙を流せないのだと、自分がいちばん、わかっていた>>>
***
「………」
つと、自分の頬を流れたものにシロはぼんやりとその瞳を開いた。
何か、とても悲しい夢を見ていた気がする。その夢の後を指で辿ろうとして、けれどそれはもう朝の陽にとけるようにおぼろげにしか覚えていない事に気が付いた。そして自分が知らない天井の下に寝ている事に瞳を見開く。
急いで起き上がると、そこはどこかの部屋の中のようだった。自分が寝かされていた寝台の横の窓からはやさしく朝陽が差し込んでいる。
部屋を見回すと、他には簡素な机と本棚が見て取れた。けれどそれらはとてもがらんとしていて余り使われている事を感じない。
シロは寝台から降りようとして、ふと、その足元にきちりと置かれていた自分のブーツに自然と笑みがこぼれた。その姿にこの部屋の持ち主の心遣いを感じる。少なくとも自分はここに受け入れられているのだろう。
「…ここは、どこなのでしょう」
最後の記憶はあの黒猫と共に汽車を見送ったままで止まっていた。落ち込んでいた自分を守るように隣にいてくれた存在に安心して、自分はそのまま眠ってしまったのだろうか。そしてそれを心配した彼が誰かを呼んできてくれて、そして…と、黒猫の彼にかけてしまったであろう迷惑の数々をシロが青ざめながら考えていると、ふいに、こちらを気遣うようなやさしさで、コンコン…と小さく扉が叩かれた。
シロの返事を待たずにキィと扉を鳴らしながらゆっくりと誰かが入ってくる。
「おはようございます。気分はいかがですか?」
そう言ってやわらかくほほ笑む背の高い男性が扉のすぐそばで立っていた。その言葉から彼がこの部屋の主なのだと理解したシロは急いで寝台を降りて靴を履く。幸いにも寝乱れていなかった服を少しだけ整えると、足早に男性へと近づき深々と頭を下げた。
「すみません、昨夜お世話になってしまったようで…。おかげで良く眠る事ができました。ありがとうございました」
そこまで言うと顔を上げて目の前の男性へと笑顔を向ける。
「いえいえ、お役に立てたなら良かったです。体は大丈夫でしょうか。昨夜は少し冷えたので心配していたのです」
「大丈夫です。とても暖かかったです」
シロはそう言うともう一度感謝の言葉を口にした。すると彼もシロの言葉にもう一度やさしくほほ笑む。
静かに年を重ねたような落ち着いた雰囲気を持った初老の男性だった。目じりに浮かんだ柔らかな線がその時間の長さとあたたかさを物語る。
「私はここで小さな店を営んでいるロウダと申します。昨夜大通りに倒れているあなたを運ばせていただきました」
どうやらシロの考えは当たっていたようだ。あの時の黒猫の彼か…はたまた全く別の誰が彼に自分の事を知らせてくれたのかはわからなかったが、後で必ず話を聞いて感謝を伝えようと心に刻む。
「そうでしたか…。僕は旅人のシロといいます。重ね重ね、本当にありがとうございました」
「なるほど、シロさんと仰るのですね。旅の方という事は昨夜の様子から察するに、もしやこの街には来られたばかりなのでしょうか」
ロウダは特にシロの肩書を疑う事も無く紳士的に接してくれている。おそらく驚かせない為だろう。この部屋に訪れた時も彼は決して自分からシロに近づこうとしなかった。
彼の雰囲気からも、ロウダが自分に対して悪意を持つとは欠片もシロには思えなかった。ただただ彼は純粋に夜の道で眠る自分に手を伸ばしてくれたのだろうと感じる。
「はい、昨日着いたばかりだったのですが、探し物をしているうちに疲れて眠ってしまったようなんです」
それを聞くと、それはさぞお疲れでしょうとロウダは階下で食事をする事を勧めてくれた。白が混じる黒灰の髪を品よく後ろになでつけた彼は、その手に持っていたものを差し出すとシロに「その前に…」と着替える事も勧めてくれる。
聞けば、皺になる事はわかっていたけれど、意識の無いシロの服を脱がす事はさすがにためらわれたので昨夜はそのままに寝かせてくれたのだそうだ。
汚れた服のままで彼の寝台を使ってしまった事をシロはまた申し訳なく思ったが、後できちんとお返しをしようと決めて素直に服を受け取った。
それでは後程、と言い残してロウダが静かに扉を閉めると直ぐに階段を降りる音が聞こえてきた。彼を疑う気持ちは勿論なかったけれど、残されたシロは先ずズボンのポケットを探ると、そこにきちんと大切な封筒が入っている事に安堵する。
自分をそのままに受け入れてくれたロウダの人柄を改めて感じ、彼を呼んでくれた誰かにシロは心の底から感謝した。
着替えを終えるとシロは扉を開けて部屋の外へと出た。とたんに辺りにあふれた光のまぶしさに思わず目を細めると、右手にある大きな窓から朝陽がこぼれる程に差し込んでいるのがわかった。背の高い窓の先にはバルコニーらしきものがある。
先程の部屋もそうだったが、床は壁と同じ石造りだ。シロが眠っていたベッドのそばにはあたたかな絨毯が敷かれていたが、こちらはおそらく広い通路か踊り場の様なものなのだろう。窓際に椅子が置かれているだけで、その他には奥にもうひとつ扉があるだけだった。
シロは下へと続く階段を窓の反対に見つけるとロウダの待つ階下へと迷わずに降りていく。
ロウダが用意してくれた服は、不思議な程にシロの体に合うものだった。開いた襟を紐で編み上げる白いシャツに、ひざ丈のズボンはもしかしたらシロのブーツに合わせてくれたものなのかもしれない。
履きなれた靴で下まで降りると、開いていた扉から直ぐに彼を見つける事ができた。見れば、大きな木のテーブルに器を並べてくれている。
部屋に入って声をかけるととてもいい香りがしてきた。するとシロは急に空腹を感じて、そういえばこの街に着いてから自分は何も口にしていなかった事を思い出す。昨日までは全くそれを感じることさえ無かったのに、きっと、ロウダのやさしさに自分は心から安心してしまったのだろう。
そう思ってしまった事が何だか嬉しくて、それはシロの心にあたたかな波紋を広げていく。
招かれて訪れた部屋は、どうやら炊事場と食堂を兼ねたものらしい。奥には大きな作業台と煙突の付いた釜戸も見えている。
ロウダに促され席に座ると、サイズが合って良かったですとシロを見てまたやさしく笑ってくれた。
支度を終えたロウダを待って用意されたあたたかな食事に手を合わせ祈れば、彼は何か懐かしいものを見るようにシロの姿に目を細めている。
「こうして見ていると、昔の事を思い出します」
野菜がたっぷりと入ったスープを口に運ぶシロにパンを差し出しながら、ロウダはそう言って自身もそれを口にする。
ふと、ふたつ置かれていた椅子の意味を察したシロは、ためらいながらもロウダに尋ねた。
「ここにはロウダさんおひとりで住んでいらっしゃるのですか?」
彼のものでは無い小さな服。用意されていた二つの椅子。そして彼の言葉からは確かに誰かの気配を感じる。
すると、声を控えて問いかけたシロの表情から何かを読み取ったらしい。気を遣わせた事を詫びると、そうではないと言って話を続ける。
「混乱させてしまいすみません。そしてどうか、ご安心を。ここに私しかいないのは何も悲しい出来事があったからではありません。その方は今ここにはおりませんが、変わらずに元気で過ごしていらっしゃいます。それに実は、私もここに住んでいる訳ではないのですよ」
そう言うと、ロウダは着ていたベストの内側から何かを取り出したようだった。
ひとまず自分が考えた事が杞憂であった事にほっと安心したシロは、ならばそれはどういう事なのだろうと再び彼の言葉を待つことにする。
ロウダは取り出したものを手の中に置くと、親指でカチリと何かを押してから手のひらをこちらに広げてくれる。
それは、古く色褪せた懐中時計だった。ふたつに開いたその一方に写真のようなものがはめ込まれている。
シロが思わず覗き込むと、ロウダはどうぞと手渡してくれた。そのセピア色の写真には、自分と同じくらいの少年が笑顔を浮かべてこちらを見ている。
「先程、私がここで小さな店を営んでいるとお伝えしたのを覚えていらっしゃいますか?」
「はい、勿論です」
「もともとこのお店はそこにいらっしゃる方が始めたもので、私は見習いの年頃からここに住み込みで雇っていただいていたのです」
なるほど、だからロウダは今もこの優しく色褪せた写真を大切に持っているのだ。まるで元からそこにあるかのように嵌め込まれた写し絵が自分の熱を少し移した真鍮を通してあたたかさを増していく。
「…何も知らなかった私に、彼は長い時間をかけて様々な事を教えてくれました。今は店を私に任せて自由に過ごしておられますが、時々こちらにもいらっしゃいますよ。シロさんにお渡しした服は、実は私が見習い時代に着ていたものなのですが、先代からいただいた思い出深いものだったので手放せずにいたのです。シロさんのお役に立てて、本当に良かった」
ロウダはそこまで話すと、シロにパンを足しましょうかと問いかけた。けれどもう十分に満たされていたシロは感謝をのべて辞退する。
最後のひと匙まできれいに食べ終えてから、シロは改めてその写真の主を見つめた。
…とても嬉しそうに、大切に思い出を語る、そのロウダのかつての主という少年。この服はそんな大切な人から贈られたものだったのだ。
シロが見る限り服には破れはおろかほつれひとつ見つからない。きっとロウダが大切に管理していたのだろう。それ程にきっと、この写真の少年とロウダにはかけがえのない時間が流れていたのだ。
そしてそれは、店の主がロウダになった今でも続いている。
シロの頭をよぎった悲しい事など、本当にここには無かったのだ。
やさしいロウダの笑顔がそれを何よりも教えてくれていた。
食事を終えると、ロウダはそれは美味しいお茶を淹れてくれた。お茶の事を良く知らないシロにはそれがどんなものなのかはわからなかったけれど、うす茶色に色づいたお茶からはほのかに爽やかな香りがした。
「これはハーブティーなのですが、この店を贔屓にして下さるお客様の好みに合わせた特別なお茶なのです」
ロウダはそう言ってきれいなガラスの茶器を取ると、その中に揺らめく褪せた緑の葉を見せてくれる。
「ロウダさんのお店はお茶の葉を扱っているのですか?それに、僕はそんな大切なものをいただいてしまって良かったのでしょうか…」
ロウダの店が茶葉を扱う事にも驚いたが、それよりもシロはそんな特別なものを自分が飲んでしまって良かったのかという方が気になって仕方がない。これは本来その人しか味わえないものだったはずなのだ。けれどロウダはシロを安心させるように何度もうなづきながら大丈夫ですよとほほ笑んでいる。
「ちょうど、もうすぐ茶葉が切れるからと連絡をいただいていた所だったのです。昨晩のうちに調合は終えていたのですが、実は試飲が未だだったのですよ。ですからこれはまだお客様のものではありませんのでご安心下さい」
「……つまり僕が昨晩ご迷惑をかけてしまった為に、ロウダさんはその日のうちにお仕事を終える事ができなかったのですね…」
彼にとってシロがここに来る事は予定に無かった出来事だったのだ。それが彼の仕事を遅らせてしまった。シロは改めて申し訳ない気持ちになり、手を添えていたカップを見て俯いてしまう。意識が無かったとはいえ、知らないうちにまた自分は迷惑をかけていたらしい。
「いえ、このお茶は初めからシロさんに飲んでもらう事が決まっていたのです」
すると、言葉につられて顔を上げたシロを見つめ、ロウダは大切な事だというようにゆっくりと言葉を繋いだ。
「もしシロさんがこのお茶を心から美味しいと感じてくれたなら、それはこのお茶が望んだ事です。あの方を思いながら作られたものが自らの意思でシロさんを選んだ。それはとても大切な事で、とても自然な事なのです」
「………」
ロウダの話す事はまるで想像もできないような世界の理にシロには思える。
ロウダの瞳には自分には見えないものが映っているのかもしれないと…そう思う事でしか、シロは彼の言葉を受け取る事ができない。
それにもしかしたらそれは、長い時間をかけて紡ぎだされた彼だけの持つ魔法のようなものなのかもしれなかった。もしくは、あの写真の彼とロウダだけが知る秘密なのかもしれないとシロは思う。
ならば、自分がわからないのも無理はないし、わからない方が良いようにも思う。これはふたりの秘密のちからなのだから。
それにわからなくてもきっと…ロウダが言うように…。
「そういう…ものなのですね」
そう言ってようやく笑顔を見せたシロにロウダも満足そうに微笑んだ。
「そういう、ものなのです」
ロウダはそう言うと、この話はお終いにしましょうと部屋の外へと誘ってくれる。
シロの手を引くと、ご案内しますと朝降りて来た階段を背に彼はどこからか出した鍵を目の前の扉の穴に差し込んだ。
カチャリと鍵のまわる音の後に扉が開くと、中から淡い光と共にふわりと何か不思議な香りが流れて来る。ロウダの背中越しに広がった空間にシロの小さな驚きが吸い込まれるようにとけていった。
シロが導かれるままに中へと進むと、後ろの扉がぱたりと閉まる。
ロウダはシロの手をやさしく離すと、あたたかな光を背にうやうやしく礼をした。
「ようこそ、路地裏黒猫紅茶店 zizioへ」
そう言ってまた、彼はやさしく…微笑んだ。
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**閑話(side ルカシュ)**
朝陽の上ったビエラの街をあざやかな赤い布が躍るように揺れていた。日に焼けた頬を滑る乾いた風は今日も晴天を教えてくれている。
ルカシュは通いなれた石畳の道を通りを目指して走っていた。住み慣れたこの四番街に彼の知らない場所は無い。
この街には他に五つの区画が広がっているが、そのどこよりもルカシュはこの四番街が好きだった。
ビエラの街はどこも様々な色にあふれているが、長い時間を過ごしていれば誰でもその違いに気が付くだろう。
住んでいる種族や人口もさることながら、通りによっては連ねているその店の数も種類も様々だったが、ルカシュの住むこの四番街は比較的人族の営む商店が他よりも多い場所だった。
たいした時間もかからず仕事場へ到着すると、ルカシュは先ず仕事の相棒であるトロッコの整備にかかる。これは毎日欠かさずに行わなければならない大切な作業だ。
動力のほとんどを鉱石で補うビエラ製のトロッコだが、車輪や座席の整備は大切なルカシュたちの仕事のひとつだ。
ルカシュは腰布に忍ばせていた布でトロッコの木目を磨きながら、ふと、目の端に映った黒いベンチを見て昨日出会った少年の事を思い出していた。
旅人だと言った少年は、どこか…不思議な雰囲気を持っていたから。
ビエラにも様々な種族がいるが、ルカシュは少年にそのどれとも異なるものを感じていた。
この街では例えそれが路地裏の猫でもそれがその者の本当の姿とは限らない。逆に人の形をしていても扉ひとつくぐるだけで別の姿で在ったりするのだ。
けれどシロにはそういう者たちともまた違う何かがあった。
ルカシュは、振り向くといなくなっているような…まるで最初からそこに存在すらしていなかったような…そんな不安定な感覚を上手く言葉にする事ができない。
作業を終えると、ルカシュは陽の高さを見てその日の仕事を始める事にした。
ーー昨日、別の通りへと向かった少年は、今日ここを通るだろうか