ロウダの待つ店へと自分はどうやって帰って来たのか。気が付くと、シロは自室の寝台に背を預け絨毯に座り込んでしまっていた。いつもよりも随分と早く帰ったシロをロウダがひどく心配そうな顔で見ていたが、その後自分は何と答えていたのかそれさえもよく覚えていない。

 あの店を訪れていた時間はそう長くはなかった。その証拠に、窓から差し込む陽はまだ登り切ってはいない。店を手伝う時間にはまだ随分と間があった。そのせいだろうか、それとも今はひとりが良いだろうと気を使ってくれたのか。階下からロウダが上がってくる気配は無い。
 シロは深く息を吸うと、唐突に訪れた先程の出来事を思い出していた。そして相手の名前を知る事も無く自分は帰ってきてしまったのだと気づく。そんな余裕はあの時のシロにはなかったのだ。それ程の事を彼女は、それはあっさりとシロに語って見せたのだ。

 あの人の言っていた事が本当であるとは限らない。そして間違っているとも限らない。けれどもそれはシロにとって受け入れがたくともやっと知ることができた手がかりだった。それを簡単にそんな事はあるはずが無いと否定する事など、シロにはできない。

 彼女はとても大切な事をシロに教えてくれていたのだと冷静になった今ならわかる。けれどそれは同時にとても悲しい事実なのかもしれなかった。


 心細さから膝を抱えると、ふいに文机の上に置いていた筆記帳が目に入る。ロウダやルカシュ、自分に優しく接してくれた人々の事を綴った沢山の頁を思い、シロはどうして良いのかわからずにただただ膝を強く引き付けていた。




***



 それからどの位経っただろうか。コンコンと扉を叩く音に気が付くと、ロウダが自分を呼ぶ声が聞こえた。どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。部屋には夕刻を知らせる低い光が差し込んでいた。シロはあわてて返事をして扉を開くと、見るからに心配そうな顔をしたロウダがそこに静かに立っていた。

 「シロさん、もしやお体の具合が悪いのですか?もしそうなら治療師を直ぐに呼んで参りますが…」

 本当は気が気ではなかったのだろう。シロが降りてくるまで待っていようとしたものの、耐えきれずに扉を叩いてしまった事をロウダは気にしているようだった。けれどしっかりと立っているシロの姿を見てわずかながら安心したのか、額に手を当て熱が無い事を確認すると、さて、それならばどうしたのだろうとロウダはシロを再び見つめる。
 気持ちの整理がついた訳ではなかったが、眠ったせいかシロの心はずい分と穏やかになっていた。今はとりあえず心配をかけてはならないとシロは努めて明るくロウダを見上げる。

 「心配をかけてしまってすみません。でも、もう大丈夫です」
 「それなら良いのですが、今日は無理にお店に立たなくても良いのですよ?少し閉店を早めれば済む事ですから」

 おそらくロウダには無理をして笑っている事を隠せていないだろうとはわかっていたが、彼はきっとシロが自分から話してくる事を待っていてくれる人だとシロは思う。それがシロにちからをくれる。

 「いいえ、そういう訳にはいきません。もしこの後ロウダさんのお茶を今日の最後の楽しみにとお店に来てくれる方がいらしたら、僕はこれからその方に会わせる顔が無くなってしまいます。そんな事にならないようにどうかいつも通りお店に立たせてください」
 お願いします、と最後に言ってシロはロウダに笑顔を見せた。

 ロウダはしばらくシロの瞳を見つめていたが、やがてあきらめたように小さくため息をつくとシロが店に出る事を許してくれた。そして、様子次第では伝えないつもりであったと話した後、シロを訪ねて店にルカシュが来ていることを教えてくれる。

 「ルカシュが来ているのですか?」
 「はい、以前約束された事を覚えてらしたようですよ。お仕事の後いらしたようで、今は奥でお茶を飲んでいらっしゃいます。まだお店の方は大丈夫ですから少しお話されてきてはいかがですか?」

 ロウダの提案にシロは迷うことなくうなづいた。後に続いて階段を降り、自分のお茶を持ってきてくれるというロウダに嬉しさを隠さずに答えると階段の右手に在る事務室へと急いで足を向ける。扉を開くと、その部屋の隅に置かれているゆったりとした長椅子に、落ち着かなくカップを握る大好きな友人が座っていた。




 「ルカシュ、来てくれたんですねっ。お待たせしてすみませんでした」
 シロはそう言うと、ぱたぱたと靴を鳴らしてルカシュの隣へとやってきた。

 仕事の後ふいにシロの顔が見たくなったルカシュは、以前店主と約束した事を思い出し、それならちょうどいいかとその足で五番街のこの店まで歩いてきたのだ。この紅茶店はビエラの街ではひそかに名の知れている店のひとつで、お客それぞれに合った茶葉を店主自ら調合してくれると評判の店だった。
    実際に店を訪れたのはこれが初めてのルカシュだったが、その店構えといい店内の雰囲気といい、ビエラの人々が好んで訪れるのが良くわかる程にzizioはあたたかく心地の良い場所だった。
 とはいえ、普段カップでお茶を飲んだりする事のないルカシュにとっては柔らかな椅子も繊細な作りの優雅な茶器も気を張らずにはいられないものだったが。

 するとそこへ会いたかった友人が扉を開けて走ってきた。その姿に、ここに案内された時に聞かされていた友人の様子は見当たらない。ロウダが言うには、普段なら時間のある限り毎日街へ出て探し物をしているシロが、今日は昼を待たずに帰って来たのだという。自分の声も届いていないような様子で、とても心配していると。
 今ルカシュの隣で笑っているシロは確かに少し疲れている気はするけれど、彼が気にする程のものは感じない。

 「やあ、シロ。なんだ、今頃起きたのか?俺の友人はどうやらとても寝坊助だったらしいな。それとも昨日夜更かしでもしたのかな?」
 「ルカシュ、そう意地悪を言わないでくださいっ。今まで寝ていた事は認めますが…」

 ルカシュがわざとからかうように言うと、シロは少し情けないという顔をしてほほを染め、少し疲れてしまっていただけだと、そんなわかりやすい言い訳を口にした。ルカシュは勿論気づいていたが、敢えてわからないふりをする。

 「そういえば、今日はあの変わった店に行ってきたんだろ?何かわかったのか?」
 「そう…ですね、はい、とても風変わりな方がお店を開いていましたよ」

 聞かれる事はわかっていたのか、シロはそう言うと少し言葉を選びながらもそこで見て来た事を話してくれる。探していた郵便局をようやく見る事ができた、そこで思いもよらない人を見つけた、色違いの瞳を持つあの黒猫をおぼえているか、訪ねた店には今まで見た事も無いものが沢山並べられていてとても驚いたのだ…など、シロは身振り手振りを交えて語ってくれる。それだけ聞いていれば充実した時間が過ごせたのかとも思えるが、けれどその中にシロの探し物についての言葉はない。

 もしや、気を落としていたのはそれが理由なのかとルカシュは思った。実際、シロの言葉はそれきり途絶え、代わりにその顔はどうしたものかという彼の内面をわかりやすく語っている。
 すると、そこに見計らったように部屋の扉が叩かれロウダがシロのお茶を持って入って来た。品よく微笑みながらお待たせしましたとこちらの方へと歩み寄るが、けれど彼は絶対に聞いていたのだろうとルカシュはひとり確信する。どうやらルカシュが思っていた以上に店主は自分の友人の事を大切に思っているようだった。慣れた手つきでシロに透明な茶器とカップを用意すると、隣から嬉し気に小さな声が聞こえたのも、きっと、彼がシロを思っての望んだ結果なのだろう。

 ルカシュはそれを何故かとても嬉しく思いながら、自分にもと、シロにカップを近づけた。







 ルカシュが店を出る間際、シロが唐突に、それは小さくぽつりと。彼に問いかけた。

 「ルカシュには、何か望みや…なりたいものはありますか?」

 それは本当に突然だったけれど、ルカシュは少しの間も置かずに当たり前だと笑って答えた。「この街で一番のトロッコ使いになる」それは、今の仕事を夢見た時からルカシュの変わらぬ思いだった。

 それを聞いたシロは一瞬言葉を詰まらせたあと、ふと何か大切なもの包み込むように手を握ると、
「ルカシュなら、きっとなれます」とそれは嬉しそうに、微笑んだのだった。







    次の日、心配するロウダに決して無理はしないと約束をして店を出たシロは、迷うことなく再び十一番街の入り口へとやって来た。その目印でもある黒い街灯の横をすり抜けると、途端に辺りにはうっすらとした霧が立ち込めてくる。
 昨日も確かにあったそれが今日こんなに気にかかるのは、それが彼女が纏っていたものに似ているからなのかもしれない。

 目指す場所はひとつしかない。自分が一番知りたい事は、きっとそこから繋がっている。そしてその答えを彼女は自分に教えてくれるだろう。けれどそれを知る為には同時に沢山のものを自分は受け入れなければならなくなると、それをシロはもう理解しているし、決めている。それが例えどんな事でも受け止める覚悟であのあたたかな店の扉を出たのだから。

 通りの入り口を入ってそう時間もかからずにその人が待つ建物が見えてくる。
 シロの心を映すかのように、あたりの霧がひやりと、その温度を下げたような気がした。



 昨日逃げるように飛び出したその扉に手をかけると、シロはひとつゆっくりと呼吸をしてからごく自然に集配局へと足を踏み入れた。
 おそらく気配でわかっていたのだろう、彼女は入って来た自分を探す事も無くまっすぐと見つめ、その体を昨日と同じように椅子に預けながら、ようこそと、それが当然であるかのように笑みを浮かべた。そしてやはり、その傍らにはシロをいつも言葉も無く見つめるあの黒猫が座っていた。

 シロは店主に小さく頭を下げると、先ずは集配局の受付へと歩いていく。思った通り今日も彼はそこに変わらずに立っていて、シロは少し嬉しくなった。昨日はあんな風にここを出てしまったので思い至らずにいたのだが、こうして今日もこの受付に座る彼を見て、シロは彼がこの集配局に務める者なのだと確信する事ができたのだ。
 返事は無いとはわかっていたが、それでもシロは機械仕掛けの彼の目を見て挨拶をする。やはり、返事は無い。

 簡素な造りの木製の受付に彼は座る事も無くたたずんでいる。そしてその手元には封蝋がたったひとつ置かれているだけだ。そこには何の説明も案内らしきものも見当たらず、ただただうす青く光る彼が自分の向かいに立っている。
 きっと彼はその日運んできた手紙を届け終わると、日暮れを待ってあの汽車と共にどこかへ帰っていくのだろう。それはきっとロウダが話していたこの島のどこかにあるというたったひとつの本当の郵便局だ。
    彼の背には壁に取り付けられた大きな仕分け棚が見え、そのいくつかにシロの見覚えのあるあの手紙が置かれているのが見えた。遠目からでもそれとわかる程に、その手紙にはそれぞれ色の異なった小さな石が付けられている。きっとそれは、彼が今朝運んできた誰かの思いが綴られたあの特別な手紙なのだろう。
 シロが探していた手がかりはやはりこの建物につながっていたのだ。
 嬉しくなり、シロはポケットから色褪せた封筒を取り出すと早速彼に見せてみる。

 「あの、この手紙なんですが、これはあなたが届けてくれたものですか?」
 すると、初めて彼の瞳が動き、焦点を合わせるような機械音を発してその手紙をじっと見つめた。そして、即答する。

 『コノテガミハ、オトリアツカイデキマセン』

 「あ、すみませんそれはわかっているのですが、少しお聞きしたい事があ…」
 『コノテガミハ、オトリアツカイデキマセン』
 「聞きたいことが…」
 『コノテガミハ、オトリアツカイデキマセン』

 そのシロと彼の問答を、耐えかねたのか、大人しく様子を見ていたらしい天蓋の店主が、無駄だと、そう抑揚無い声で断ち切った。

 「彼はこの街への配達しか行わない。できないのだ。そういう風にできている」
 「そんな言い方…」

 受付で彼と向かい合うシロと青の店主の間にはある程度の距離があったが、明らかに無駄な行為だと、それは冷たい霧を伴ってシロに伝わった。そして、この集配局の局員である彼を冷たく現したその言葉は、昨日、ここで聞かされた大切なビエラの人々へ向けられたものと重なる。
 何故彼女はそんな冷ややかな言葉を選ぶのだろうと、シロはそれをそのまま言葉にする。けれど店主はそれすら、それこそ無駄な問いかけだと答えた。

 「その者にそれ以上聞いてもお前の欲しい答えは得られぬぞ。お前が私の言葉をどういう風に捉えているのか知らないが、その者ができる事は彼の地から預かった特別な手紙を配る事、ただそれだけだ。そしてお前の望む答えを持つのはその者では無く、この私だ。そろそろあきらめて私にそれを見せてみたらどうだ?なあ、そなたもそう思うであろう?」

 青い天蓋の店主はそう言うと、その椅子の傍で佇む黒猫に視線を落とす。シロはその黒猫は決して自分を傷つけない存在だとわかっていたが、その彼がどうして青い天蓋の主の傍から離れないでいるのか不思議でならなった。
 シロはあきらめて集配局の窓口を後にすると、ようやく霧を纏う露店の前へと進む。その霧はうっすらと青みを帯び、今やこの建物の中を満たしていた。機械仕掛けの彼の体が青みがかっていたのは、おそらく光の見え方などでは無くこの冷たい色に染められてしまったからなのだろうと、じわりと足元に絡まるその霧を肌で感じてシロは思ったのだった。



 「それで?」
 目の前の青の店主は相変わらずその目元を隠したまま簡潔にシロに問いかけてきた。シロは、この冷静極まる店主に余計な気づかいなど意味が無いとはわかっていたが、さすがに昨日の無作法に触れずにものを尋ねるのは気が引けたので、ひとこと、それを詫びてから素直に手のひらの封筒を差し出した。

 「この手紙の差出人を探しています。僕は、この封筒ひとつだけを持ってあの汽車から降りましたが、下車するには封筒の中身を渡す必要がありました。その為、僕に残されている手がかりはここに残る小さな石の欠片だけです。この店にたどり着くまで沢山の鉱石店を回りましたが、誰もこの石を知る人はいませんでした」

 目の前で座る彼女の顔を見ないよう視界に広がる青いローブをじっと見つめながらシロは求められている問いを口にした。すると店主は封筒を受け取ると、ほう、と小さく声を上げる。そのふたりのやり取りをじっと黒猫が見ていたが、それは昨日と同じようにどこか、揺れているようにシロには思えた。

 「僕の名前はシロと言います。手紙の中には、僕にその名を名付けると、そう書かれた便せんが入っていました。ですが不思議な事にそれを必要とされて運転手に渡した時には、その文字は消えていたんです。それでも彼は受け取ってくれましたが…」
 「それはあの汽車を操る者であろう?」
 「そうです」
 「ならばそれは当然だ。消えた文字に宿っていた力を対価として受け取ったのだからな。その者にしか持ちえぬ特別な対価が無い者をあの汽車は受け入れない」

 それは以前ロウダが話してくれた事の中にもあった事だった。つまり、あの手紙は例え願ったとしても失われてしまうものだったのだ。それならば、大切なものを無くしてしまったあの時の思いも救われるような気がして、シロの心が少しだけ軽くなる。けれども、店主はそんなシロの心の動きを拾う事無く、それがあたかも自然な流れであるかのようにただただ冷えた言葉をシロに降らせていく。

 「そして、汽車から降りた者は例外無く全くものを持たぬ。大切にしていたものも、時間も、世界も、人も、記憶も、自分でさえも。故に、汽車を降りた者は必ず求めるのだ。お前の場合それがその手紙の差出人であった。だが、誰もがその求めたものにたどり着ける訳では無い。そんなものを追わずとも、ここはその者の全てを疑う事無く受け入れる。そのうちに忘れてしまうのだ。自分が無くした事も忘れ、この街の一部となりとけていく。ほぼ全てのものがそうなると言ってもいいだろう。だから最初にお前を見た時私は言ったのだ。めずらしい者が来たと」

----確かに、彼女はそう言っていた。けれど…

 「だが、お前も少しは思ったのではないか?何も持たぬお前をありのままに受け入れる者たちに安らぎを覚え、あんなにも急き立てられるようであった焦燥が緩やかなものへと変化したのではないか?時が経てば経つほどにお前はここにとけてしまうというのに。…本当に、愚かな事だ」

 「………」




 「だが、愚かではあるが、お前はこうして私の元へと来た。ならば、それが全てだ。お前は忘れる事は無かった。ただ、それだけの事だ」




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