ビエラの街の夕暮れは、陽が建物の背に隠れるとあっという間に訪れた。二番街を後にしたシロは、その隣にある七番街を目的のものを目指して歩いていた。
 ルカシュの話からこの街には数えて六までの通りがあるのだろうと思っていたシロだったが、辿り着いた次の場所には何故か「七」の文字がはためいていた。

 シロは少しの間戸惑いを隠せなかったが、目的地を探す事が先だと思い直すと再びあざやかな建物の群れの中を歩き始める。けれども見落としてしまったのか、それともこの通りではなかったのか、そんなに時間も経たないうちに通りにはだんだんと人が少なくなり、立ち並ぶものも商店より工房の様なものが増えてきた。
 もしかするとこの区画はどちらかと言えば職人街なのかもしれない。そういえばお店の数と同じくらいの人々が工房を持っているとルカシュも話していた事を思い出す。

 シロはその事に気が付くと、潔くここではないと判断して再び来た道を戻る事にした。



 店の数から考えても、前の場所から移動してきてそこまで時間は経っていないと思っていたが、通りの店のあちらこちらでは既に多くの商店が店じまいを始めつつあった。どうやらこの街では日暮れと共に店の戸を閉めてしまうのが普通らしい。
 通りの入り口に帰り着く頃には辺りはずい分と暗くなり始め、見上げた建物の上階にはそこに住む人々が小さな明かりを灯し始めていた。


 気持ちだけは焦り、あきらめられないままにようやく旗がゆらめく街灯の下に辿り着く。……と、シロは、どうしてか動かなくなってしまった足にため息をつきベンチに座り込んでしまった。
 そばにはルカシュのものとは違うこの通りのトロッコが無造作に置いてあったが、運転手らしき人は辺りには見当たらない。こんな風に置いて帰ってしまって大丈夫なのだろうかとシロは少し心配になったが、まばらになってゆく人々と次々と閉められていく扉の音を聞いているうちに、この街の夜にはルカシュたちが必要ない程にしか人通りが無いのだろうと思い直す。

「ルカシュはもう仕事を終えたのでしょうか…」

 誰に言うでもなくこぼれた言葉は自分の心を写しているのかどこか寂しげだ。

 主人に置いて行かれたようなトロッコを静かに見つめると、シロは徐々に暗くなっていく空を見上げながら、今日のうちに目的地を見つけられなかった事をとても悲しく思っていた。
 また明日探せばいいとも思うのに、足早に迫る夜に追われるように少しづつ心の中が翳っていくのを止められない。そうすると、気づかないようにしていた体の疲れまでが感じられてきて、シロはくったりとその身を冷たいベンチに預けてしまった。

 汽車を降りた時には感じなかったその冷たさにこのままここにいてはいけないとわかっていたけれど、でもそれならどこに行けば良いのだろうと背を預けたベンチからシロは言葉も無く空を見る。
 だんだんと冷えていく体に反するように、疲れからじんじんと熱を帯びた足が今日のシロの一日を物語る。どのくらい歩いて、走ったのだろうか。自分はまだここへ着いたばかりだというのにどうしてこんなに気持ちが急くのか…それがシロにもわからない。

 何か大切なものを見落としてしまっているのではないか。

 自分は求める人の所へ少しでも近づけているのだろうか。


ーーその人は果たして今でも自分を待っていて…くれるのだろうか



 寒くは無かった。けれど心はシロが思う以上にさみしい、会いたいと泣いていた。

 誰に…とは、勿論シロには…わからなかったけれど。



 じわりと迫る夜気にシロの熱が冷えた頃、空を仰ぐシロの目に黒い街灯が音も無く明かりを灯した。すると、その光を受けた何かが視界の隅でわずかに光った事に気が付く。

 シロはベンチから背中を離すと、その光の見えた方向にじっと目を凝らしてみた。そこには、汽車の線路が走る大通りがある。既にほとんど闇に包まれているその中で、小さな影がほのかな明かりを反射しながら右へ、左へと動いていた。    
 カシャン…カシャン…と、規則的な音を立てて誰かが石畳を踏んでいる。その覚えのある金属音が頭の中で誰かに繋がる。

 シロは弾かれたように音の主へと走り出した。

「機関士さんっ」

 そう叫んであっという間に彼へと追いつく。追いついて、
「僕です、シロですっ」ともう一度声を上げるけれど…しかし音の主はそばに来てみるとあの汽車の運転手では無い。真っ直ぐに前だけを見据え足を運び続ける姿はあの彼のものと重なるけれど、その身に纏う歯車や鈍色が明らかに彼とは異なっていた。

 シロの言葉に彼は何ひとつ反応していなかったが、直ぐに人違いに気づいたシロは慌てて詫びる言葉を口にする。変わらずに歩き続ける彼の歩調に合わせてゆっくりとシロも足を運びながら言った。

「すみません、人違いをしてしまいました。あなたが僕の知る方にとても良く似ていたので…」
「ご不快にさせてしまったでしょうか…」

 落ち込んでいたとはいえ、自分を知る会ったばかりの無口な機関士が恋しくなって思わず声をかけてしまったとはさすがに恥ずかしくて言えなかった。
 けれどもあの運転手に良く似た彼がひどく心を落ち着かせる存在に思えたシロは、歩みを止めないよう少し遠慮しつつも行く手の邪魔をしない程度に距離を取る。
 何も言わない彼につられるように、シロは黙って、石畳を歩いて行った。


 そうしてどのくらい、ゆっくり歩いただろうか。やがて線路のかなり近くまで来ると、彼はぴたりとその足を止めた。                      
 いつの間にか辺りはすっかり暗くなり、遠く向こうに見えていた別の街灯は闇に埋もれてその輪郭さえも今は見えない。
 ついていくうちに闇に目が慣れたシロにはうっすらと彼の姿が見えていたが、ここまで離れてしまうと背中に今もあるはずの街灯からもその体の色を映す光はもうほとんど届かなかった。
 黒い川のように伸びる大通りを中心に、それぞれの通りの方にはルカシュが聞かせてくれた六つの小さな光の群れが見えた。こうして見るとその大きさや長さは決して同じでは無い事がよくわかる。家々に灯る明かりの長さは、そのままそこで営まれている光の数を現していた。

「ルカシュの家も、あのどこかにあるのでしょうか…」

 そうつぶやいてシロは自分の腰ほどの存在を見つめたが、振り向く訳でもなくうなづく事も無く、やはり彼はシロの言葉に何も返してはくれない。
 こんなにも似ているのに、つくづくこの小さな人はあの機関士とは纏うものが違うと感じる。それは別に自分を拒絶するものではないのだけれど、それは迷惑をかけてはいないのだと安心すると同時に、どこか…やはりさみしい。
 線路の脇で佇む者を見つめながら、シロは同じように寡黙なもう一人の彼を想った。

 すると、おもむろに彼がゆっくりとその片腕を持ち上げた。
 …その瞬間、シロたちの、正確には彼の足元からわずかに空気を震わせてひと筋の風が吹き抜けていった。
 その風が通った後に、次々と辺り一面に小さな光の粒が現れる。

「………っ」

 瞬く間に前後に走り抜けた光の粒は、遠く街のその先まで伸びる汽車のレールを一瞬で暗闇の河から浮き上がらせた。そして時を置かず、それまでその姿はおろか、何の音さえも聞こえなかった場所から霧を纏わせたあの汽車が突然その姿を現す。
 驚きの余り言葉を無くしているシロの前に、タタン…タタン…とあの音を響かせて汽車が滑り込んでくる。
 あまりに突然の出来事に気持ちも理解も追い付く事ができない。けれどその光景はシロの目の前で当たり前のように今もなお広がり、近づいてきた車体の「その場所」を見上げればあの機関室がゆっくりとした速度で過ぎて行く。
 そしてその簡素な扉の中には思い描いていた人物が、やはり、あの時のままで…座っていた。


 唖然とその色褪せた車体を見上げるシロの前で、ガタリと…音がして、小さく煙を吐きながらやはり当たり前のように汽車が停まる。その余りにも幻想的な光景にシロは未だに声を出す事ができない。
 突如現れた足元の光の粒は、暗闇の地面をまるで夜空の星々の中に汽車を浮かばせているかのように見せていた。
 不思議な事にその光は街の方へ伸びる事は無く、線路の道筋を辿るようにひたすらに大通りを駆け抜けている。それは敷かれた線路を照らす明かりのようでもあり、この暗闇の中を走る汽車が迷わぬようにと示されたひと筋の道のようでもあった。

 すると、未だに手を上げていた彼の前で客車への扉が音も無く開いていく。
 彼は当然の様にその階段に足をかけ、結局一度もシロを振り返る事無くゆっくりと客車の中に消えて行ってしまった。そして続けざまに、その彼と入れ替わるように階段を下りてきた者にシロは思わず声を上げてしまう。

「っ…あの時の猫さん…?」

 戸惑いながらも、自分の足元をくるりと一回りして寄り添ってくれるその黒くあたたかな温もりを感じてシロは何だか泣きたくなった。そして汽車の中に消えた彼と、変わらずに前を見て席に座るその人を見て、シロは改めてふたりは別々の存在だったのだな…と心の中でつぶやく。

ーーでもそれなら…。それはつまり、機関士さんはひとりぼっちでは無いという事ですよね…
僕は大丈夫です。僕にもこうして…傍にいてくれるひとがいますから…

 そう思いながら足元の温もりに励まされるように機関室を見上げて。


 やがて、シロのその声が聞こえたのだろうか。また小さくガタリと音がして汽車が霧を吐き出し動き出した。
 最初に、タタン…と線路を跨ぐ音がゆっくりと、それはそれは長く響いて、段々と早く…短くなる度に汽車はシロから遠ざかってゆく。

 その姿が夜の先に見えなくなっても、線路の浮かぶ光の河は消える事無く瞬いていた。



 シロはゆっくりとその場に座り込むと、傍らに静かに座ってくれている黒猫にそっと呟くように語りかけた。走り去った汽車を見守っているかのように、その不思議な瞳の黒猫はじっと前だけを見据えていたが、それも気にならない程にシロはただただ、小さく呟く。

「あの汽車は、どこから来たのでしょうか」

 それはどこか、自分は何処から来たのかという問いに似ている気がした。

「どこまでこの道は続いているのかな…」

 青白い光を体に映しながら黒猫は変わらずに前を見ている。


「…猫さんはきっと、知っているのですね」



 遠く揺らめく街の灯りに、ビエラの人々をシロは思った。
 夕暮れと共に彼らが戸を閉めるのは、きっとこの光を妨げない為なのだ。
 あたたかく小さな家には、ろうそくと暖炉がひとつあればいい。

 全ては夜を行く誰かの為に。

 決してその道を…違えぬように。





 いつの間にか眠りに落ちたシロにやさしく誰かの声が降りて来た。

 それはひどく懐かしく、眠り続けるシロの夢の中でじっとずっと……響いていた…。