† こちらは小説版 最果て古書店[tile] です。作品のみで十分です(*^^*)という方は全く気にせずブラウザバックされてください(*^^*)†


せっかくのtileのHPなのだから…と載せてはみますが気がついたら耐えられなくてやはり消しているかもしれません…が…

こちらは作り手自身がtileの世界観により浸る為に書いた全くもって趣味の物語の為、読みづらさわかりにくさ誤字脱字は当たり前の何でもありのものになっております。確かにこれを読めばtileの世界により浸れるかとはおもうのですが……文章力が……文章力のあまり、文章力が………しかも終わっておりません…その先もありますし決まっているのですがいかんせん文章力と時間がございません。。
それでも、読んでみたいから大丈夫ですよ……という方のみお読み頂けましたら…もう本当に…はい…、ありがとうございますm(__)m

第一章  霧の中の少年 




タタンタタン…タタンタタン…と、その音は一定の間隔と共に響いていた。

 何かにもたれながら揺られているのだと気が付くと共に、自分は目を閉じているのだなと少年は考えていた。そして同時に、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。

    まず視界に入ったのは深い深い緑。よく見るとそれは人ふたりが座れる程の椅子で、どうやら自分はそれと同じものに腰かけているらしい。
 タタン…タタン…という音に視線を動かすと、通路を挟んだ隣側にも同じような作りの椅子が見えて、そこには外を見る為の大きな窓がある。
 けれど不思議な事に窓の向こうは濃い霧のようなものが流れているだけで、自分が今どこでこの乗り物に揺られているのかを知る事はできそうにない。

 何故、いつから自分はこんな所で寝ていたのだろう。…いや、そもそも寝ていたのだろうか。そう考えて、初めて少年は自分の頭の中にその答えが無い事に気が付いた。

 見当たらないのは、記憶だけではない。

 少年は自分が何者であるかもわからなかったのだ。その事実に慌てて席を立つ。そうしたところで何を思い出す訳では無かったけれど、居ても立っても居られなくなったのだ。
   
    色褪せたこげ茶の椅子の背に手を添えながら呆然としたまま見渡すと、そこは、古びた木で作られたおそらくは汽車の中。先程から聞こえている規則的な音は線路の継ぎ目の音なのだろう。壁も床も、椅子も全てが茶のぬくもりを帯びた木製の汽車だ。
   背と座面に貼られたうすい布だけが、深く、やわらかな緑をたたえている。

「どうして僕はこんな所にいるんだろう…」

 無意識につぶやき思いながら他に誰かいないのかと見回すけれど、わずか一両の客車には自分ひとりしか見当たらない。
 車両の後ろには扉らしきものがあった。それはおそらく降車口へと続くもので、逆に汽車の進む方向にある空間は機関室になるのだろう。その証拠にそこには扉は無いものの、その先にあるだろう場所を覗く小さな窓が付いていた。
    当たり前の事ではあるが汽車はひとりでには動かない。進む方向には必ず機関士がいる。

 幸いな事に汽車の速度はゆっくりとしたものだったので、少年は左右の手で交互に体を支えながら前方を目指して歩いていった。

   
 たどり着くと、ちょうど顎の高さほどにあった小窓から先ずは外の景色を確かめる。けれど残念ながらそこには座席の窓と同じ風景が広がっていた。
 異なるのは流れる霧の向きだけで、それを正面から受けている分むしろ先程よりも流れがわかりにくい。

    白く曇った世界がただただ、見える。

 更に小窓の中を見てみれば、客車と同じような茶色の壁に、燃料を燃やす為の黒い炉のようなものが見えた。するとその隣に機関士とおぼしき人影を見つけ、沸き上がる嬉しさと安堵に思わずガラスを叩こうとして……その小作りな白い手をぴたりと止める。お忙しいのにすみませんと、そう言おうとして…けれど開いた口はそのままに固まってしまった。

 タタン…タタン…と変わらない音が響く中、少年はその小窓の先に見たことも無い存在を見つけた。

    ぴくりとも動かずにじっと前を見ているその人は、明らかに自分よりも小さな体で台に乗りレバーのようなものを握っている。その様子から、彼が何者なのかはわからなくとも、確かにこの汽車を動かしている存在なのだという事は少年にも容易に理解できた。

 鈍く光る四角四面の小さな体は金属や石を思わせる。そのあちらこちらには歯車やネジ、突起などが埋もれるように見えていた。

 「人形」と言うにはあまりにも無機質で…異質な存在感。
   
 けれど彼は、「ヒト」でも、「動物」でも無い。
   
ーー「それ以外」の存在


「………」

 不思議と、怖いという気持ちは起こらなかった。どうしてなのかはわからない。けれど、ほとんど感覚的に、彼は怖くないと、少年は思ったのだ。
   
    怖くはない。…だが、言葉が通じるのかはわからなかった。そしてガラス越しに小さな体で重そうなレバーを操る彼をじっと見ていると、今更ながらこの汽車を動かすという役目を果たしている彼の邪魔をしてはいけない、今は…その時ではないと気が付くと、少年は少し後ろ髪を引かれながらもあきらめて元いた座席へと戻る事にした。

 ゆっくりと揺れる車内を、元いた席へと足を戻しながらもう一度見渡してみても…やはり自分以外に車内には誰もいない。向かい合わせの座席が無言のまま通路を挟んで並んでいるだけ。
    それを改めて確認すると、どうしたものかと考えつつボックスの席に座ろうとして、カサリ…と響いた音に手を当てた。

 「あれ…えぇと…そういえば…」

    思わず触れた場所を見て、自分の間抜けさを思い知る。
   
    その時になって初めて少年は『自分自身』を全く見ていなかった事に気がついた。辺りの様子が気になるばかり、自分の服の事など全く気が回らなかったのだ。
   
    席に座ると軽く腕を持ち上げたりして、初めて見るものの様にしげしげと観察する。触れたり、少しばかり鼻を近づけたりしてはみるが、そのどれもこれもがまるで知らないものを見ているようだった。

ーー確かに自分が身に着けているものなのに

 「何というか…黒い…ですね…」
 
 そう…無意識に呟いてしまう。
   
 黒いブーツに黒の靴下、ひざ丈のズボンに黒いシャツ。それを繋ぐブレイシーズまでもが黒だった。

    その肌触りの良い闇色のズボンのポケットに………何かが入っている。
 どうやらそれが先程の音の正体のようだった。

    ポケットに手を入れるとそれは直ぐに見つける事ができた。手紙だった。褪せた色のそれはしまわれていた事以上に明らかに古いものに思われ、更に不思議な事に本来切手が貼られるであろう部分には石のようなものが付いている。
    指先に触れるだけでもわかる、それは上質な封筒だ。まるで切手の代わりにと付けられた様な石は、植物の一部が入り込んでいるような不思議な模様の欠片だった。

 「変わった形の手紙ですね…」

 石なのにもかかわらず欠片と感じたのはその形が明らかに整えられていたものに思えたからだ。
 かつてはひとつの形を成していたものが、おそらく長い時を経るうちに何処かが欠けてしまったのだろう。そして何となく、であったが、少年は自分の思い描く手紙というものとそれは、異なるもののように思えていた。

 それがどこから来る記憶なのかは、勿論わからなかったけれど。


 タタン…タタンと変わらずに聞こえる音を聞きながら手紙を裏返してみる。表にも裏にもそのきれいな石の他には、消印はおろか何も描かれてはおらず、しかもその封は開いていた。
    開いていたというよりもそもそも閉じられていなかったようだが、中には何かが入っている。

 少年はその白い手に「手紙」を持ちながら、中身を見てしまっていいものかと…考えた。
    宛名も無く、切手も無く、封さえされていないそれが自分のものとは限らない。そもそも自分が何者であるかもわからないのに手紙が誰のものであるかを判断する事などできるわけが無かった。
    そして…手紙は誰かの思いが…綴られたもの。それは決して他人が見てはいけないものだ。記憶の有無に関わらずそんな事は当たり前の事だったけれど、だけど…それでも…と、何もかもわからない今の状態が少年の指先を動かそうとする。

    緩やかに音を刻み続ける汽車は確かに自分を乗せているはずなのに、何もわからないという不安が、誰かに、何かに置いて行かれるという思いを掻き立てる。

 そして、それは嫌だと、心の中が叫んでいた。


 汽車は変わる事無く走り続ける。窓の外はどこまでも白くその先を見せてはくれない。寒さも暑さも感じない時間の止まったような空間の中で、ただその手紙だけが異なるものに思われた。
 そうなのだ。自分ですら、ここでは影を感じない。それは存在しないも同じだった。少なくとも少年は、この閉ざされた世界と同化しているものだった。

 そして心は、それを頑なに、拒んでいた。


 意を決して、少年は封筒をひらく。
 中には同じように色褪せた便せんが見えた。
 たった一枚だけのその紙の縁に指をかけ、ゆっくりと…ひらいてみる。

 そこには、短い言葉がただ一言、綴られていた。

 『君の名を、シロと名付ける』



    「………」

 何故、そう思ったのかはわからない。けれどそれが自分の名前なのだと、少年はひとかけらも疑う事無く、理解した。

 「僕の名前はシロ」

 舌にのせてつぶやくと、それは不思議と自分の体に馴染むようにしみ込んだ。
 もう一度褪せた紙を見つめる。
 自分の事をシロと呼ぶ誰かを確かにその文字の向こうに感じる。

 「僕は、シロ」

 そう少年の、シロの言葉が空気にとけた瞬間。

   小さく、何かが弾けたような音がした。そしてそれを待っていたかのようにガクンと、汽車がその速度を落とす。
    外の霧が晴れ始め窓の景色が揺らめくと、白いもやの向こうに様々な色彩が浮かび始めた。
 それらは汽車の速さに合わせてゆっくりとその輪郭を見せ始め、やがてそれが色あざやかな建物の群れであるとシロにもわかる程になる。

「すごいっ、なんて沢山の色であふれる街なんでしょうっ」

 汽車が進むにつれその建物がよりシロの瞳に鮮やかに映る。その時になって初めて、シロは自分が乗っていたものがそう遠くない近さで通りすぎて行く街のそばを走っていた事に気が付いた。道理でゆっくりなはずだ。こんな場所を走るなら確かにあの位ゆっくりでなければならないだろう。

 赤、黄、青、白、みどり。建物は隣り合って連結するように連なり、シロにはそれがまるで虹のように思える。その中をぽつりぽつりと人影が動いているのを見つけ、シロはとても嬉しくなった。

 何故、どうしてという疑問は勿論あったけれど、今はただただ広がった世界が嬉しい。そして同時に自分はここにひとりではなかった事が心の底から嬉しかった。

 それはシロが、自分とその他の存在を確かに感じられた瞬間だった。


 やがて、線路をまたぐ音がだんだんと遅くなり、ガタリと、ブレーキをかけて汽車は停まった。
   シロは急いで身の回りを確認し自分の持ち物が手紙ひとつしかないとわかると、少しも戸惑う事も無く客車の後ろへと足を向ける。
    はやる気持ちと共に黒いブーツがぎしぎしと床板を鳴らす事も気にせず、次いで出入口へと続く扉に手をかけた。


    小さな音を立てて開いたその先には、カンカン…と、靴音を硬く響かせるタラップ。そして開ける空。世界。



    わずかな黒い手すりの向こう。
その景色は、遠くどこまでも続く線路が、あの白い霧の世界まで…続くように…導くように…伸びていた。








 喜びに胸を高鳴らせながら汽車を降りたシロは、霧の中に消える線路をじっと見つめた後改めて自分が乗っていた汽車を見上げた。
   色褪せた木材に黒い鋲が所々に打ち付けられた車両はやはりひとつしか無く、前方には客車と繋がれたあの鉛色の機関室が見える。

 汽車は、シロの降車を急がせる訳でも無く、休憩するかのように、車体は曇り空にとけるような白い煙を吐いていた。

 シロの足元にはあたたかみのある様々な色のレンガが敷き詰められている。そこから十分な距離を取って建物までは広々とした空間が作られていたが、降り立った場所には駅の様な目立った造りのものは見当たら無かった。

    大きな石畳の通りの真ん中に、ただただずっと、今は汽車の停まる線路が伸びている。

 乗客が降り立った場所が、もしかしたら降車場となるのかもしれない。
    未だ汽車の方を向くシロの背にはあの建物へと続く道が伸びていて、その入り口には目印になりそうな大きな黒い街灯が見えていた。


 シロはそれを見つめながら、けれどゆっくりと足を前方へと向ける。やっと汽車から降りる事ができたのは嬉しかったが、やはり切符を持たない身でこのまま立ち去る事に気が引けたシロは、とりあえず機関士にひと言詫びをしたいと思ったのだ。

    機関室まではあっという間だ。なにせひとつの車両しかない。数歩歩けば直ぐに先頭に到着し、二段ほどの階段を上ろうとして、けれどシロはぴたりと…また止まってしまった。

 先程、あの小窓から見つめた不思議な彼が……そこにはいた。

    間口を大きく取った機関室の出入口を見上げるが、彼は前を向いたまま止まってしまったかのようにぴくりとも動いていない。シロに気付いていないはずが無かったが、彼はこちらを向く事もなく、けれども拒む事も無く…立っている。

    その静かな彼の姿を見ても、やはりシロは怖いとは思わなかった。むしろやっときちんと彼を見て話せる事が素直に嬉しい。

 ゆっくりとしか走らない汽車だからだろうか。階段の先には間口にシロの腰ほどの高さしかない簡素な戸があるだけだった。数段上がったその先には、上下に落とし込むシンプルな装飾取手が車体と扉を繋いでいる。
   
ーー雨の日や寒い時に…こんなに開けていて大丈夫なのでしょうか…

「あの、お忙しいのにすみません」
   
 心配を胸に秘めながらも階段をのぼる。と、先程はためらって言えなかった言葉を口にした。失礼の無い程度に鈍く光を帯びる彼の表情をうかがってみる。

「………」

 彼は、やはり動かずに無言だ。もしかしたら言葉は通じないのかもしれない。けれども、ひと言伝えなければシロはここから離れるわけにはいかなかった。
 いつから、どうしてこの汽車に乗っていたのかはわからない。けれど確かに自分は安全に、穏やかに彼の運転の中に守られていたのだ。手紙を開いた事で突然その時間は終わったけれど、街へと向かうその前にシロはどうしてもお礼が言いたかったのだ。

 いくつもの歯車を耳あてのように被る彼に向って、シロは穏やかな声で伝える。

「僕は切符を持っていないのですが、どうしてもここで降りなくてはいけないんです。そうしないといけないと…思うんです」

 シロは自分の中に生まれてくる切なる思いを確認しながらゆっくりと言葉を繋いだ。

「だからせめて切符の代わりに何かをお渡ししたかったのですが、あいにくと僕の持ち物はこの手紙ひとつだけで。そして、これを僕は決して無くしてはならないと…思っています。だけど…僕は、降りなくてはなりません。機関士さん、本当に申し訳ないのですが、降車をお許しいただけますか?」

 カサリと、その大切な手紙を差し出しながら、シロは運転手の顔を見上げた。すると、カタカタとわずかに金属がかみ合う様な音がして、彼はその手からそっと封筒を持ち上げた。そしてあたかもそれが当然の様に封を開くとシロの名前が書かれていたあの便せんを取り出す。
 ネジが飛び出した指先がシロが止める間もなく折り目を開くと、良く見なさい…とでも言うように、それを慌てるシロの方へと向けた。

 機関士でもあり運転手でもあるこの不思議な汽車の唯一の存在。その彼の行動は、慌てたシロも思わず素直に従うような、それは…とてもやさしいものだった。

 そして示されたその紙に、見れば、確かにあの時は書かれていた大切な文字が。
きれいに跡形も無く失われている事に…シロはようやく気が付いたのだ。

 あまりの事に、どうして…と、シロはつぶやく。けれどそれも何の問題も無いというように、彼は白くなった便せんを折り畳み再び自身の方へと戻した。そしておもむろに体に付いていた簡素な取っ手に手をかけると、キィという音を立て、ぽっかりと開いたその暗闇の中へと落とすでもなく、入れるでもなく、それはじっと彼を見つめるシロの目の前から消えて行ってしまった。

ーーそんな…

 呆然としたままシロは、どうして、どうしようという言葉を飲み込みながら驚きと悲しみに揺れる。
 あれは、気が付いた時にはこの汽車の中で何もわからず、何も覚えていなかった自分に名前と道を示してくれた希望の様なものだった。誰かが自分の為に綴ってくれた文字が確かにそこには存在していた。

 けれどそれはいつの間にか失われ、紙にはその人の気配すら残っていなかったのだ。

 機関士は、それをわかっていたのだろうか。だからあれを切符の代わりにと引き受けたのだろうか。
 彼の行動に悪意は無かった。それどころか、こちらを労わるような仕草だったとすら感じられた…けれど…。

 全ての気配が無くなったあの便せんが切符の代わりとなったなら、シロは何の問題も無くこの汽車から降りる事ができるのだろう。
 けれども、大切なものを無くしてしまったという悲しみがどうしようもなくシロの手を震わせた。その気配を頼りにこれから進もうとしていた道が急に見えなくなってしまったように、シロはただただ、悲しかった。

「………」

 すると、また小さな音が響いて。…俯くシロの胸元に中身の消えた封筒が差し出された。
 これだけは返してもらえるのかとわずかに安堵しながら瞳を上げたが、機関士の顔は変わらずに前を向いたままだ。そのせいで、彼の表情はわからない。けれどやはり、彼からは、穏やかで労るような…そんな雰囲気しか感じられなかった。

 封筒だけでも持っていけるのなら少しは頑張れるかもしれない。運転手の気遣いを感じシロはそう思い直すと、その手のものを受け取ろうとした。
 色褪せたそれには、変わらずに小さな石の欠片が残されている。



 『アナタノ、オナマエハ』


 突然、聞こえた「声」に、シロはまっすぐに彼を見た。

 高くも無く低くも無いその「声」は、ちぐはぐな音を繋ぎ合わせたような、そんな「声」だった。どこから響いてくるのかもわからない、やさしく、不思議な声がシロに再度問いかける。

 『アナタノ、オナマエハ』

 その声に、前だけを向き決してこちらを見ない横顔を見つめながら、シロは大切な大切なその名前を彼に聞いてもらいたくなった。
 問われた言葉は薄暗く影を落としていた心にふと落ちてきた欠片のようで、それは小さくきらきらと語り、答えたい…伝えたいとシロにあたたかな思いを生み出させる。

 消えてしまった便箋にもうその言葉は無いけれど、自分は確かに「シロ」であると誰よりも自分が知っている。そう思い知って、シロはそうか…と思う事ができた。大切な誰かが教えてくれた言葉は、形は無くなってしまっても自分の中にひと言も違えずに残っているのだ。目に映るものは無いけれど、それなら心の中に刻んでおけばいい。

 この汽車を預かる者として彼は必要なものを受け取らなくてはならないのだろう。けれどそれは決してシロから大切なものを奪うような事ではなかった。
 失ってはならないものはもうここには無く、それはあなたの中にあると彼はそれを教えてくれていたのかもしれない。

 だんだんと瞳に明るさを灯してきたシロに、『アナタノ、オナマエハ』と、また彼の声が問いかけた。

 「僕の、僕の名前はシロです」

 知ってもらえる事が心底嬉しいのだと彼に伝わるようにと、シロは微笑みながらその大切な名前を口にした。機関士はシロの言葉に何かを返す事は無かったが、嬉しそうなシロの気配をじっとその横顔で感じていたようだった。

 シロも、心の中にあふれる嬉しさに身を任せるように、未だ見ぬ大切な誰かに、静かに、そっと思いを馳せた。



 やがて、彼が右手で足元のレバーに手をかけた。するとガタリと音がして車体が穏やかに振動を始める。

 彼との別れと発車の気配を感じて、シロは封筒をポケットへと戻した。
 機関士のやさしさと配慮に心からの言葉を伝えられる事に感謝する。

 「あなたのおかげで穏やかな旅でした。ありがとうございました」

 シロはそう言うと短い階段を駆け下りた。石畳をけり、汽車から十分な距離を取ると後ろから蒸気を吐くような音が聞こえる。振り向いて見てみると、見上げた客車にはいつの間にかいくつかの影が見えていた。

 不思議と、彼がまたレバーを前へと動かしたような気がした。ガタリとまた音がして、あざやかな街の中を行く線路の上を汽車はゆっくりと動き出す。


 発車の鐘は聞こえなかった。

 シロはその姿が遠く小さくなるまで、じっとずっと、そこにたたずんでいた。