店主の言葉を、シロはただただ、聞いていた。
次々と語られる事は確かに自分の事であるのに、それがとても遠くの誰かの出来事のように感じていた。それ程に、彼女の冷静な言葉はシロに多くの事を教えてくれていた。あまりにも多く、大きく、そして悲しくてあたたかくて。
 けれども、それがどれだけ胸を締め付ける事でも、その言葉の中には、シロやこれまでビエラに降り立ち輪郭を失ったものたちへの悪意は欠片も無かった。彼女はただ、シロの問いかけに泣き出しそうな程の真実で答えただけなのだ。その証拠に今こんなに様々な感情に飲み込まれそうなのにも関わらず、シロは先ほどまで感じていた彼女に対しての不信感が消えている事に気が付いていた。
 青の店主は、とてもとても冷たくて透明な真実を偽りなく伝える。そういう人なのだろうと、シロには思えたのだ。

 そして、揺れるシロの心を何よりも支えているのは、あのルカシュの言葉だった。目の前の人がどんな風に彼らを現そうとしたとしても、シロの中の彼らはどうしたって「ここ」にいる。同じ様に笑い同じように叶えたい思いがある。彼らの「時」は決して止まってなどいないのだ。
 そう在りたいと願う大切な友人の笑顔が、シロの心を支えてくれていた。


 シロはずっと伏せていた顔を上げると、目の前にあるその長く伸ばされた前髪に隠れた顔を見ながら唐突に店主の名前を尋ねた。

 「なんだ、ようやく顔を上げたと思ったら私の名前だと?それこそどうでも良い事ではないか」
 「いえ、こんなに大切な事を教えていただけて…とても感謝しているんです」
 「…そうか、やっと私を受け入れたとみえる。誠に時間がかかる者だな、お前は」

 そう言った店主はそれすらも自然の流れとでもいうように全く感情を見せず動じない。きっと彼女には自分がシロという名前である事すらどうでもいい事なのだろう。
 シロは語られた事実を事実と受け止めただけでまだ自分の腕の中はいっぱいだったが、彼女は最後にこう言ってくれたのだ。お前は覚えていたと。ただそれだけだと。それが全てだと。それはまだあきらめなくても良いのだと、そう言ってもらえたのだと…シロは思うのだ。
 そして例え彼女がそれを望まなくても、シロはこの目の前の人の事をもっと知りたいと、知らなければと思った。それはシロがこの店を訪ねてから初めて感じる事が出来た、前に進む為の願いだった。

 「もう一度、改めて言います。僕の名前はシロといいます。どうしてもたどり着きたい人がいます。どうか力を貸してください」

 黒猫は、シロを見ていた。
 その言葉に、青い天蓋の店主は一度沈黙した後、ほんのわずかその口角を上げて己の名としてそれを告げた。

 「人々は私を氷の魔術師マギナ・サリバンと呼ぶ。だがそれは本当の名では無い。しかしそんな事はよくある事だ。気にする程の事ではない。それよりも、そうだな…では、シロ。まだ話は終わらぬのだろう?こちらに来て座れ。お前の顔を見るのは実に楽しく興味深いが、さすがに疲れた。私の友人の傍でくつろぐと良い」

 そう言うと、マギナ・サリバンは先ほどよりも明らかにくつろいだ様子を見せシロを手招きした。その姿は相変わらず尊大だが、お互いの名前を交わした事をきっかけに自分はマギナ・サリバンの領域に入る事を許されたのだとシロには思えた。

 長く緩やかな曲線を描く背もたれに横たわり、青の店主はひじ掛けに腕を預けながらシロの動きを追っている。天蓋の下には厚みのある絨毯が敷かれていたが、彼女がそうしているようにシロも外履きのままで黒猫の隣に腰を下ろすと、今まで足元を漂っていた青い霧がシロの頬をなでるようにすぐ目の前に留まっていた。
 天蓋の内側はそう広くは無く、シロの横にも後ろにも所狭しと古めかしい古書が縦に横にと並べられている。これは売り物なのだろうか、それとも店主の所蔵品なのか。それらを呆気にとられながら追っているうちに、横にいた黒猫の異なる瞳と、ゆっくりと、目が合った。

 「また、お会いしましたね」
 そう言った言葉を、黒猫はその瞳をじっと見つめ返す事で答えてくれているかのようでシロは嬉しかった。




 「シロ、話の続きだが」
 ひとしきりシロが落ち着くのを待っていたのか、マギナ・サリバンが先ほど渡した封筒を手に話し始めた。

 「お前はこの石の欠片が何であるかを知りたいのだったな。だが先ほどお前はこの封筒がどこから届けられたのかを察したのだろう?」
 「はい、あちらの集配局が特別な手紙のみを運ぶ所だとは聞いていたのですが、まさかこの封筒がそこから来たものとは思わず…。何か繋がりが得られたような気がしてとても嬉しかったんです」
そう言ってシロは少し体を浮かすようにすると建物の奥にいるであろう局員の彼の方を見やった。

 「差出人がわかった訳でも無いのに何を無駄に喜ぶのだ」
 「今まで何の手がかりもつかめなかった僕からすれば、それだけでも十分に嬉しい事なんです。ここから辿っていけばきっと繋がるのではないかと…そう思えて」
 「どこを、どうやって、何を頼りに辿るのだ」
 「それは…」

 それは確かに、シロにはわからない。すると店主は積み上げられた古書の上のものをシロに取らせると、巻物のようなそれの紐をほどきシロの膝の上で解き開く。目の前に開かれたものを目にしたシロは思わず小さな声を上げてしまった。それはひどく色褪せた、けれど不思議と今も存在感を放つ古い古い地図だった。

 「全く持ってお前は時間がかかる。ならばその希望は早々に砕いてやろう。シロ、ここに残る石の欠片はこのビエラには存在しないものだ。これはこの島の遥か北に在るという空白の森アルバフォリアでのみ見られる希少な石だ」

 マギナ・サリバンはそう言うと、ひざの上で緩く波打つ地図の上の方を棒のようなもので指示した。地図にはシロにはわからない言葉でその場所の名前らしきものが島の中に点々と記されている。彼女が示した場所は、その地図の中央に大きくまるで島をえぐり取るように描かれていた。

 「すごい…これが今、僕がいる島‥。それにしても、なんて大きな森なんでしょうか」
 「そうだな、正確な大きさなど誰にもわからぬだろう。何せその森は意思を持って生きているからな。今でもその領域をゆっくりとだが広げている。このトゥーレという島の根源の様な存在だ」

 「トゥーレ…」
 「そうだ、それがこの島の、世界の名だ」

 ずいぶん前にロウダが教えてくれたその名、この世界の名前、それを再び口にしてシロはもう一度その地図を見た。そしてそっと指を島の南端、このビエラがあるという場所に当ててみる。
 地図にうっすらと描かれている道の様なものは、おそらくあの汽車が走る線路なのだろう。それはひたすらにまっすぐ島の上の方へ、その森へと伸びている。
 そしてシロはふと、その手前、汽車が森へと消えるあたりに小さく街の名前らしきものが書いてある事に気が付く。十字架のような印で記されているその場所から、どうしてかシロは目が離せなかった。心臓をつかまれたように胸が急に苦しくなる。そんなシロを気にするように黒猫が隣でその瞳を見上げていた。



 「どうした、何か気になる事でもあったか」
 言葉も無くいつまでも地図を見ていたシロにマギナ・サリバンが問いかける。その呼びかけにシロが顔を上げると、明らかにそこには自分を試しているかのような店主の顔があった。
 「いえ…なんでも、何でもないです」

 その言葉も、そう言って湧き上がった感覚を振り払うようにした小さな動きまで見逃さぬとでもいうように、マギナ・サリバンはシロの全てをじっと観察している。おそらく彼女はシロが「めずらしい者」である為にその存在に興味があるのだろう。その表情は見えなくても、自分を見下ろすように座るその人が内に秘めているだろうものの大きさも、その性質もシロにはとても推し量る事ができないものだとわかる。
 氷の魔術師と人々が呼ぶ存在。その名前からでしか、シロはこの店主が持つ膨大な知識と力と記憶の断片を想像する事ができないのだ。

 「そうか、ならばいい。ではシロ、それを見て理解したと思うが、つまりお前が求める場所へはあの汽車に乗る事でしか行けぬ。故に、今のお前がそこに行く事は叶わない。それは、お前の持つ手がかりが失われたという事に等しい」

 「はい…その通りだと…思います」
 きっと今自分は青ざめた顔をしているのだろうと思いながらもシロは懸命に店主の言葉を肯定する。

 「このままでは、お前が求める者へは辿りつけない。そのうちに、いつしかこのビエラにとけてお前は穏やかに時を止めて過ごしていく」

 「はい…」

 「大切な者を忘れて」
 「それは…っ」

 「それは嫌か?シロ」

 その問いかけは、自分にとっては投げかける意味も無い。
 シロは答えようとした。けれど傍らの黒猫が身を乗り出して、それを言わせないとする。けれどもシロは止まれなかった。自分を心配するやさしい彼の小さな頭をなでると、不安に揺らめいていた心を打ち消すように静かな瞳でマギナ・サリバンを仰ぐ。

 氷の魔術師は、そのシロの表情から全てを察したようだった。そして満たされたようにうなづくと、その瞳が見たかったと、そう満足そうに口にする。

 辺りに漂う霧が一層冷たさを増した気がして背筋が震える。

 マギナ・サリバンを見上げる視界に青い霧が立ち込める。
 すると魔術師が、流れるような声色でその言葉をシロに降らせた。


 「全ては向かうべき方を向き、ありのままに流れ、凍り、落ちてゆく。シロ、このビエラを覆う霧の中へと行き、白き子供を見つけるのだ。………なに、会えばわかる」



    「トゥーレとは、世界とは、そういうものだ」