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――シロはまた、いつか見た霧の中にいた。
シロは自分の手も足も体の在り処さえわからず、そのうちに自分は霧とひとつになってしまったのだなと、何故かそう思っていた。
すると、またどこからか声が聞こえて来た。
とても悲しそうな声だとシロは思った。
あの子は森に近いから、だから連れていかれてしまったと声はくり返し聞こえて来た。
けれど、ざわざわと風に鳴く木々の音に紛れるように、その声はだんだんとシロから遠くなった。
やがて、みしりと、音がして。
シロは真っ黒な樹に捕らわれたーー
***
それからしばらくの間、シロの毎日は瞬く間に過ぎていった。あの日この店で目覚めた時に与えられていた寝台をそれからもシロは毎日使わせてもらっている。
シロが使う事になったこの部屋は元々はロウダが見習いの時に使っていたものだったが、店を引き継いでからは手入れはしていたものの、実際にはほとんど使う事が無かったらしい。
むしろ愛着のある家具や服をシロが使ってくれてとても嬉しいと彼は言ってくれるので、その彼の思いを素直に受け止めシロは毎日感謝を込めて袖を通しているのだった。
シロの毎日は単純だけれど忙しい。
朝起きると既にロウダは店に来ていて階下で食事の支度をしてくれている。シロはそれが出来上がるまでに店の外の掃除を済ませる。朝食の後は一緒に開店準備をし、店が開くと共にシロは街へと行き夕方まで手がかりとなるものを探して歩くのだ。
そんな中でも四番街に用事がある時には必ずルカシュに会いに行く。ルカシュは様々な事を教えてくれると共に、シロに沢山の笑顔をくれる大切な友人となっていた。
帰宅すると、ロウダが夕食の準備をする間シロは紅茶店の仕事を任される。初めこそ緊張していたシロだったが、基本的な事はロウダが丁寧に教えてくれたおかげで直ぐに理解する事も覚える事もできたし、お茶に関する難しい事はロウダに任せると決まっていた。
加えて店を訪れるお客は皆シロに対して等しくやさしく、元来のシロの物腰の柔らかさも手伝って直ぐにシロはこのzizioにとけ込むことができたのだった。
おかげで今ではロウダが用事を済ませる間シロが店に立つ事も増えて来た。わずかとはいえ、ロウダの役に立てる事、そしてこのビエラの街に自分という存在を知ってくれる人が増えていく事がシロは心の底から嬉しかった。
店を閉めると、ロウダは彼の家へと帰りシロはひとりで夕食を取る。片づけをして入浴など身支度を整えると、シロはようやく灯りを消してろうそくを手に部屋へと戻るのだ。
その頃にはもう夜の帳が降りてずい分と時間が経っている。
寝台に入るまでのわずかな間が唯一シロがひとりを感じる、静かで、そして少しだけ人恋しい時間だった。
その日の夜も部屋へと戻ったシロは、先ず文机にろうそくを置くと備えられた椅子を引いて書き物をする事にした。その日の出来事を忘れぬようにとロウダに筆記帳と道具を頼んだのは他でもないシロ自身だ。
大切な人が増えていくにつれ、けれども自分はまたいつ記憶を無くしてしまうかもしれないと、それがとても悲しい事だと思えたシロは、小さな事から大切な事まで思うままに綴る事にしたのだ。
インクを浸し、真っ白な紙に今日起きた事、出会った人々を思い出しながらペンを走らせる。そうして綴られたページはまだ多くは無かったが、名前以外を持たないシロにとって、それは自分が自分としてここにいる事を確かに証明してくれるものだった。
そしてペンを握るその間だけはひとりのさみしさを感じずにいられる事もシロにとってはありがたかった。
とはいえ、貴重なインクと紙を無駄に沢山使う訳にもいかない。シロは早々に書き上げると、ろうそくを消し、机を後にして月あかりを頼りに寝台へと向かう。ロウダがくれたやわらかな布の靴を脱ぎ毛布にくるまると、シロはすぐ横の窓の外を見つめながら明日はどこを探しに行けば良いだろうと考え始めた。
ルカシュに石を扱う店を教えてもらってから、シロはそれらをひとつひとつ回る日々を過ごしていた。後で知った事だったが、思っていた以上にこの街には沢山の鉱石店が隠れるように店を構えていて、それをくまなく訪れる事は中々に時間を要するにものだったし、一度訪れた店であっても毎日のように持ち込まれる商品の話を聞いては再び足を運ぶ事も少なくない。
危険を伴う仕事であったが、ビエラでは街を囲うように常に在る霧の中で様々な石を拾う事ができるらしく、その為にあちこちの通りには石を扱う店が多く点在しているのだという。
シロは封筒に残された石の欠片がどんなものなのかを調べる為にずっと石の店ばかりを回っているのだが、不思議な事にどの鉱石店の主もあの石を知らないと言っていた。
訪れる度に線を引き、また書き足すリストに記された次の店がまたひとつ。
昼間、偶然ルカシュを見かけたので彼にその事を伝えると、そこはかなり変わった所らしく何かわかるかもしれないとルカシュはそのあたたかな微笑みでシロを励ましてくれた。
シロは詳しい事情を彼に話せないままでいるが、ただずっと何かを探している自分をルカシュは何も言わずに支えてくれている。
そこに、どんな事でもいい、何かひとつでも手がかりがありますようにと、シロはまぶたを閉じて願ったのだった。
翌日、いつもの様に朝食を終えた後、ロウダに声をかけてからシロは店の戸口のあざやかなタイルを超えて外へ出た。今日もまた黄色の壁に寄り添うようにいた黒猫のジジオと言葉を交わして五番街の通りへと路地裏の道を歩いていく。
ビエラは美しく整備された街だが、その区画の中も一歩細い道へと入れば様々な路地裏の風景に出会う事ができるのだ。緩くあたたかな色の石畳からは人々の生活の足音が聞こえてくる。家々のアーチを抜け通りへと出ると、シロはルカシュにもらった街のおおまかな地図を開いてみた。
今日の目的地はこの五番街から大通りを挟んで向かいに位置する十一番街にある。シロも地図をもらって初めて知った事だったが、ビエラの街は汽車が走る大通りを中心に、北に向かって左の上から五、七、二番街。右は十一、八、そしてルカシュがいる四番街という全く繋がりの無い並びの造りになっていた。
それを不思議に思い尋ねてみたのだが、ルカシュは、気が付いたらそうだったと答えただけで特にそれを疑問にもしていない。
それが当たり前だからと言われれば、シロももうそれ以上何も言う事はできなかったのだ。
直ぐに五番街から大通りへと出たシロは、汽車の姿が無い事を確かめ石畳を進んでいく。汽車を降りたあの日からもその姿を見る事は度々あり、そしてその運転席には必ずあの機械仕掛けの彼がいた。
彼の歯車の瞳が自分をとらえてくれていたのかはわからなかったが、いつかまた自分はあの汽車に乗るのだろうといつしかシロは思うようになっていた。
何故そう思えるのかはわからなかった。
けれどあの汽車と自分には今でも繋がる何かがあるとシロには思えてならなかった。
シロはあの日と同じブーツで線路を跨ぐと黒い街灯を目指して歩いていく。
やがてその旗をなびかせる通りへとたどり着くと、シロは高まる期待と不安に追いつかれないように、うっすらと霧の混じる街並みへと走っていった。
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その店はビエラにたったひとつしかないという郵便局の中にあった。けれどその名前は正しくはそうではなく、ここは届けられた特別な手紙を配達する為だけの集配局なのだと以前ロウダは教えてくれた。
その外観はこの十一番街に並ぶほとんどの店がそうであるように、他の区画よりもどこか色褪せていて常に薄い霧がかかっていた。そのせいか、先程までの空がうそのようにこの街の通りは陽が薄い。
目的地であった郵便局はあの日のシロが必死で探していたものだったが、その佇まいは抱いていたものとはずいぶん異なる様相でシロは少しだけ気を落としてしまう。
それは自分が手紙というものに持つ抑えきれない程の希望や願い故だったけれど。
今、その封筒は大切にシロのポケットにしまわれている。
シロは灰色の石壁を見上げると、心を決めて色褪せた赤い扉を入っていった。
「おや、これはめずらしい者が来たようだ」
扉を開けて中へと入ったシロにそれはすぐそばから聞こえてきた。声がした方に目を向けると、そこには不思議な衣装を身にまといこちらを見つめる人がいる。
床に厚手の絨毯を敷き直にものを売る露店のような雰囲気の中、その人はゆったりと寝椅子にもたれてかかっていた。その背後にも周りにも所狭しと物が並べられ、石造りの天井からはいくつもの青い布が垂れさがる。
まるで天蓋の中で開かれている魔術師の私室に入り込んでしまったかのようで、石灰の建物の中に在って、そこだけがずい分と薄ら青い霧に包まれている。そのあまりにも不思議な空間がどうやらシロが探していた鉱石店のようだった。
辺りを見回すと、その店の右手には集配局らしきものがある。しかし手紙を扱うという場所柄もっと人々が行き交う所と思っていたシロは、その静けさにまたしても想像を裏切られてしまった。
確かに特別な手紙の配達のみの仕事なら訪れる者はそう多くはないのかもしれない。けれども、見つめていたその褪せた木製の窓口にいつか見たあのもうひとりの機械仕掛けの彼を見つけ、シロはとたんに胸を高鳴らせた。
----あの人は…っ
ひと言も言葉は交わせなかったけれど、あの汽車の機関士と同じく彼もシロにとっては忘れる事のできない存在だったのだ。
そんなシロを先程の声の主が興味深げに観察している。深い青の椅子のひじ掛けに体を預け、さらりと流れ落ちる金色の髪はその目元を隠しているが、明らかにシロへとその視線は向いていた。
シロは窓口の彼に話しかけたい思いに駆られていたが、先ずは大切な目的を果たさなければとその瞳を天蓋へと戻す。
するとそれを待っていたかのようにその人がゆっくりとシロを手招きしたのだった。
「初めて見るが、お前はこの街の者か?」
シロは近づくと、その自然と上からものを言われるような感覚に一瞬驚いたが、それを気にする事も無く言葉を返す。
「はい、とは言っても少し前に来たばかりですが。今日はこちらに珍しいものを扱うお店があると聞いて来たのですが、ここで間違いないでしょうか」
「珍しいかどうかはお前次第だがな。まあおそらく間違ってはいないだろう」
「それを聞いて安心しました」
そう予め用意していた挨拶を交わすと、シロは改めて目の前の人を瞳に映す。すると、驚いた事にその椅子の傍らにあの異なる瞳の黒猫がシロを見上げている事に気が付いた。思わずシロは声を上げそうになったが、あわてて口に手を当てる。黒猫はそんなシロをじっと見ていたが、シロは心を落ち着かせて再び目の前の人へと視線を戻した。
ゆったりと椅子に腰かけるその人は、聞こえた声の感じからも女性であると思われた。彼女は首元に大きく隆起した樹の仮面のようなものを身に着けており、それだけでも十分に存在感を放っていたが、細く長いまっすぐな金色の髪、その身に纏う異国のローブにはシロが見たことも無い不思議な文様があちらこちらに記されており、まるでそれ自体が呪文のように彼女の体を包み込んでいた。
目の前に置かれている様々な素材や鉱石たち。古びたもの、積み上げられた沢山の古書も、彼女を含めた全てのものがシロには初めて見るものばかりだった。ルカシュが話していた通り、ここは今まで見てきたどの店ともその全てが異なっていた。
「ここにあるものが珍しいか?」
「はい、見たことが無いものばかりです」
「…そうか、だがそれはお前も同じだろう。先程お前はこの街に来たばかりと言ったが…。では質問だ。お前はどこから来たのだ」
「え…」
その言葉に、シロは一瞬にして固まってしまった。この人は何を言っているのだろうと言葉を無くし、その意図するものを考える。
彼女の表情は長い髪に隠れ見る事ができなかったが、瞳の動きから指先の震えまで、自分は見られていると、シロは思った。けれど、シロが伝える事ができるものなど考えた所でたったひとつしかない。自分はあの汽車に乗ってきたという、ただそれだけしかシロにもわからないのだから。
そんなシロを黒猫のふたつの瞳がじっと見ている。そういえばあの不思議な夜に彼もあの汽車から降りてきた者だったと…そんな事を何故か唐突にシロは思い出していた。そして、再会する度にひかれ、つい覗き込んでしまいたくなるその瞳が、今は初めて揺らいでいるように…細められている。
「答えになるのかはわかりませんが、僕はあの大通りを走る汽車に乗ってこの街へ来ました。僕に言える事はそれだけしかありません」
すると、シロの言葉に彼女は明らかに驚いた反応を示した。顎を預けていた腕からそっと顔を上げると、ほう、あの汽車から来たというのかとシロの方へとわずかに身を乗り出してくる。その姿勢を気にするように黒猫は彼女を見上げていた。
「やはりお前も普通の者ではないではないか」
そう嘲笑うように目の前の者は話し始める。
「…え?」
「あの汽車から降りてきて平然と今もここにいるのがその証拠だ。大方、街の者が誰一人としてお前の素性を疑問に思わぬ故に気が付かなかったのだろう。愚かな事だ」
----…この人はいったい何を言っているんだろう
「それは…どういう事でしょうか」
「そのままの意味だ。この街の者は、そういう風に、できている。いや、そうとしか在れないというのが正しいかな。お前がここに来てどれ程経ったか知らないが、さて、それは何と心地よく穏やかな時であったと想像に難くない。愚かな事だ」
何か、とても冷たくて悲しい事を目の前の人が言っているとシロは思っていた。自分はここにただ石の手がかりを求めて来ただけのはずなのに、どうして今、自分はそんな事を言われているのだろうと、震え始めた体を抑えながらただただ呆然と立ち尽くしていた。もはや目的であった封筒を見せる事も忘れ、突然語られてゆく信じられないような言葉に指先までが震えてしまっている。
そんなシロに、目の前でひたりと笑う指先が延ばされようとして、けれどするりと、その凍える冷えた先からシロを守るようにそれまで微動だにしていなかった黒猫がふたりの間を飛びぬけた。
「…え…ねこさ…っ」
そして直ぐに向き直ると、彼のあたたかな温度に驚き正気を取り戻したシロの靴紐をかみ、この場から遠ざかるようにと後ろの扉へと引きずろうとする。その間にも青い店主の口元からは小さく笑う声が漏れていく。
突然の黒猫の行動に驚いていたシロだったが、彼の意を察すると今はとにかくここを出た方がいいだろうと判断し、自分に向けて未だその指先を伸ばしたままでいる店主へとうろたえながらも言葉を向けた。
「すみませんが、今日はこれで失礼します。また…また改めて、伺います」
「…ああ、そうだな、そうした方がいい。今にも凍えてしまいそうな顔をしているからな」
そう腕をのばしたまま笑う彼女にそれだけを伝え背を向けると、何かから逃れるようにシロは扉を開け通りの方へと走っていった。
「そんなに怒ることは無いだろう、友人殿」
後にはそうつぶやいて笑う声と、音を立てて閉まっていく扉を見つめる黒猫だけが残されていた。
冷たい石の部屋の中、走り去った者の揺れる瞳を思い出しながら。